アゲハを見守り中

5月半ば、柚の葉に産みつけられていた宝石のようなアゲハチョウの卵は、数日後には小さな黒い幼虫に変わっていた。最初はすすゴミのようだったのが、日増しに大きくなっていく。よーし、蝶になるまで見届けるぞ!と思っていたら、すべて姿を消した。鳥に捕食されたのだろうか?…がっかり。


ある日、豆腐に乗せようと山椒の枝を切って水の中で振り洗いし、使い残りを瓶にさしておいたら、そこに小さなアゲハの幼虫が育っていることに気づいた。今度こそ捕食されないように、室内で見守ることにした。
本で調べてみると、ナミアゲハという種類らしい。黒とクリーム色のツートンカラーの蝶になるアゲハだ。
黒い体の若齢幼虫は、数本の山椒の小枝を廻り、こっちで食べていたかと思うと、次には別の枝に移動していたりして、気ままに動いているようだ。撮影の音に、身構えるようにぴたっと動きを止める。ちょっと気味悪い色合いは、鳥の糞に擬態して、捕食されないようにとの工夫らしい。賢い。


やがて一番大きな幼虫が、山椒の枝のなかに埋もれるようにして青虫(終齢幼虫)に変わっていた!青葉の色を映すように、きれいな緑色。大胆なデザインでサイケデリックだ。若齢時のいぼいぼがない、スベスベした表面は、これなら触ってもいいかな…と思える。枝をつかむ足がかわいらしい。


もりもり葉を食べ、山椒は次々裸枝になっていく。黒い粒の糞が落ちまくるので、たらいで受けることにした。仕事をしていると、背後で何度もポトリと音がする。ハイ、快腸ですね?

夕食に、山椒とちくわなどを加えた大根のサラダを作った。山椒のいい香り。アゲハの幼虫と同じものを食べている…と気付いたら、親近感が。山椒だけでできているアゲハは、きっといい香りに違いない。

足元の異変

ひと月程前、夫が緊張した面持ちでやって来て言った。「大変なことになっている…」
聞けば、棚から引っ張り出したファイルの書類がごっそりとぼろぼろになっていることに気づき、さらに棚自体も、そして棚の下の床もぼろぼろに…。も、もしや白蟻?!
さっそく馴染みのリフォーム会社に連絡し、白蟻専門業者を伴って来てもらった。その結果、床下の見える範囲だけでも、あちこちに白蟻の蟻道が確認された。なんてこった…!これらの床は2000年以降にリフォームしたところなのに…。

白蟻の食害というのは、家屋の新旧には関係なく、新築したての家ですらやられることもあるのだとか。光が大嫌いなので、床下の地中から家屋によじ上る際も、土などで固めたトンネルのような蟻道をつくって、光を遮りながら進むらしい。だから当然、ゴキブリのように人間の生活空間にひょっこり姿を現すことはない。ひょこひょこ出て来てくれれば、「白蟻発見!」と、すぐに対応ができるのだが。だから人間は、足下で静かに進行している異変に全く気付かない…。恐ろしくなった。白蟻点検と予防は、定期的にするべきなのだということを思い知った。

この際だから、と、2年前のリフォーム時に見送っていた懸案の工事もついでにお願いする事になり、白蟻駆除を実施するのは工事内容が決まるまではお預けだ。なんとも落ち着かない、この心境。廊下にじっと佇んで耳をすましても何も聴こえるわけはないけれど、この瞬間もどこかでカサコソ床材を食べているのかもしれないと思うと不気味だ。

この感じ。人間の体にも言えることだと思う。知らないうちに進行しているかもしれない病のもと。突然、告知されて唖然とする経験はしたくない。白蟻の知らせを警告と見て、心身の微かな訴えに気づけるようでありたいものだが…。

写真:鈴蘭

Pina Bauschの身振り

ピナ・バウシュの表現世界を表した2本の映像「夢の教室」と「踊り続けるいのち」を見た。2009年にこの世を去り、もう彼女の新作に会う機会は断たれてしまったけれど、生前の幾度かの公演を見続けて、なにかが私の感覚や意識の深いところに届いた瞬間をこれからも忘れずにいたい。1989年、2度目の来日公演「カーネーション」の紹介記事を新聞で見た時、私はこの人の名前すら知らなかったけれど、無性に惹かれるものを感じてチケットを予約したのが最初だった。

今回の映像「夢の教室」では、10代の素人の若者達がピナの作品を踊るまでの意識の変化にも踏み込んでいて興味深く、「踊り続けるいのち」では、ヴィム・ヴェンダースによる3D映像で、ピナ作品をダンサーのそばにいるごとく体験できた。ピナ作品が強く惹きつけるのはなぜだろう…そんなことを考えながら。


ヴィム・ヴェンダースによる映像から


“身体表現の新しいジャンルを生み出した”と言われるピナの公演は、いつも意外性にあふれていた!ダンサー達の外見は、身長も、年齢も、民族も、髪の長さや薄さも、衣装もさまざま。美しく統率されただけの振り付けとはかけ離れていた。ピナの質問とダンサーの答えから生み出された表現。ダンサーは単なる踊り手のひとりではなく、その人生や意思を持った個人として舞台に存在し、舞台でもそれを語る場面がよくある。そのような個々が集まったダンスであるがゆえに、外見の多様さは必然であって、見る者は、まるで世界を俯瞰するような体験をし、自分のこともそこに投影してみることになるのだろう。
これまでに見た公演で、特に眼に焼き付いているのは、女性ダンサーが脚をがに股にふんばって立ち、頭を振って長い髪を回転させる姿。それも唐突に。広い舞台空間のなかで、ひとり髪を振るその姿は、魂の叫びのようにも、つぶやきのようにも感じられ、胸に迫る。美しく見られることを意識したポーズではなく、ありのままに生きている素の姿を感じさせるさまざまな身振りが、たとえ奇妙であっても、意味がわからなくても、コトリ…と小さな音をたてて記憶の中のなにかと符合し、私を揺さぶってくれる。

文化活動を支える眼差し

1週間前の夕方、めずらしくファックス受信の音がした。紙面を見ると信じがたい文面がそこにあった。私の知人の中でも最もエネルギッシュな10人に入りそうな方、Nさんの訃報だった。
Nさんは、2003年から2006年にかけて私が実行委員会代表として企画運営したアートプロジェクト「Between ECO & EGO」を埼玉県川口市で開催したおり、最初から最後まで応援してくれた恩人である。この美術展は、活動開始からの地道な広報活動が功を奏したのか、“川口で初めての大規模現代美術展”と期待され、2004年の開催は地元のさまざまな協力を受けて、充実した内容となった。
http://www.eco-ego.net/

しかし、現代美術の展覧会が商店街に収益をもたらす効果は薄く、また、よそ者の持ち込み企画が地元に受け入れられるためには、もっともっと努力と工夫が必要だったのだろう。2004年の開催の後、次の開催までの準備期間のうちに地元の関心は薄れてゆき、最終年の2006年展は、広範囲からの関心と観客を集められた成果はあったものの、その運営に関しては、地元の協力が乏しい茨の道だった。運営する私たちの意欲も体力も限界がきて、ひとまず幕をおろした。

Nさんは、鋳物会社の代表取締役という立場だったので、このプロジェクトの運営に直接手を貸すことはなかったけれど、参加アーティストの作品を無償で鋳造してくれたり、同業者からの協賛金集めや宣伝を買って出て下さった。「東京からわざわざ川口に来て開催してくれるのを、応援しないわけにはいかないじゃないの!」というNさんの言葉が本当にうれしかった。火を見つめる業種のために眼をやられ、濃いサングラスを常用する外見は強面の印象があったが、実は気さくで好奇心旺盛。応援した対象は私たちのプロジェクトに限らない。意外なかたちの鋳造のアイデアや工場内での映画作りなどなど、Nさんに相談を持ちかける若者のさまざまな活動を、おもしろがって応援する親父さんだった。


このアートプロジェクト以降も、Nさんの協力は続いた。2008年には、川口で発表する板状の作品を立てるための鉄製の支持台の制作を引き受けて下さった。
作品「グレイの海」2008 西川口プロジェクト参加

制作費用を受け取って下さらないので、お礼に自作の絵を持参したときのことー「うれしいねえ!」とNさん。「会社の収益が上がったときしかできないけれど、自分が応援したい活動に対して、これからも支援していこうと考えているんだよ」と話してくれたのだった。


Nさんの訃報を受け、もしかして、このとき語った意思は、死期を悟ってのことだったのだろうか…?とドキッとした。なぜなら、まだまだ現役で事業拡大しそうなNさんが、文化活動支援も進めていく選択をするということに、ちょっと意外な気がしたからだ。翌日、同様に応援していただいた夫と共に、Nさんの会社を訪ねた。事務の方の話によると、Nさんは昨春に病が見つかり、手術後も入退院を繰り返したとのことだった。
ここ数年、訪ねる機会をつくらなかったことが悔やまれた。昨秋11月、私たち夫婦が参加した野外展へのご案内状に対して、Nさんから手書きの手紙を添えたご祝儀が届いたのが最後となった。
「お久しぶりです。この程、野外アート展おめでとうございます。いつもお便りありがとうございます。そして、ほんの気持ちですが、ご笑納下さい。後々迄のご活躍、お祈り申し上げます。 N 」
今思えば、この手紙を書いて下さった時、Nさんは最後の闘病のただ中だったかもしれない。文面の最後の言葉は、どんな思いで書いて下さったのだろう…と思うと、泣けてくる。
お祝いも、お手紙も、訃報のファックスとともに、すべて形見として持ち続けよう。思い出しながら、Nさんの応援に報いることができるように、活動を続けたいと思う。

人格をもつ家

母の傘寿を身内でお祝いするため、福島に帰省した翌日、宮城県に向かった。これまで東北の被災地は何度か訪ねたが、まだ足を踏み入れていなかった石巻市から南三陸町までのエリアを訪ねてみた。

震災から10ヶ月。幹線道路から見る市街地は、瓦礫が撤去されたさら地が“新築予定地”のようにも見え、被災地という印象は薄くなっていた。港湾部や地盤沈下した一帯では、土盛りをしたり、内陸寄りに暫定的な(だろうか?)道路作りなどに取りかかっているところもある。そこが被災地と知らなければ、単に、大規模な宅地造成工事現場にように見えるだろう。しかし、造成現場が広大であればあるほど、そこには、その規模の破壊された街があったということかもしれない。

遠目に見える瓦礫の分別作業は、作業車が材木1本1本をつまんでおこなっている。瓦礫の全体量を思えば、まことに気の遠くなる地道な作業だ…。それでも、少しずつ前へ進むことを祈りつつ、心のなかでつぶやく。がんばろうね、がんばっぺ! そう、被災地という印象が薄くなるのはいいことだ。前に進んでいるのなら、ずっと忘れないのなら。

海岸沿いの通りに入ってみると、そこには、瓦礫の撤去も終えていない、破壊のまま10ヶ月が過ぎたような一帯が現れた。津波の襲撃を受けて、どの家も海側の壁や扉が破壊され、引き裂かれたカーテンが海風に吹かれて終始はためいている。その動きのせいで、家は生き物のように見える。まるで、内臓を見せながら立つ人体標本のように、屋内の生活空間を外にさらした家、家、家。室内には安楽椅子があり、オルガンがあり、棚の中には物があり…。津波の一瞬前までの暮らしがかき回された状態で、そこにある。所有者は、名残惜しくても仮設住宅に引き取ることができず、あきらめるしかなかったのかもしれない。それとも、もうこの世にいないということも…? ごく私的な室内が無防備にさらされている状況は、なんと痛々しいものだろう。思わず手を合わせてしまう。



先輩アーティストの背中

風邪気味で、養生しながらデスクワークした日のこと。未整理になっていた名刺を、PC内の住所録やメールアドレス録に入力して、名刺ファイルに差し込んだら、古い名刺に眼がとまった。

そういえば、若かった頃に出会い、もう長いこと会っていない海外のアーティストは、今どうしているだろうか? ふと思い立って、facebookの検索に名前を入れてみた。同姓同名の人がたくさん連なって出てきた。居住地やポートレートから推測するが、顔や情報を伏せている人のは確認することができない。しかし、名前の羅列と別欄に、入力した名前に関する情報がいくつか紹介されていた。…あった。Judith Wright。

http://judith-wright.com/
彼女に出会ったのは1993年、私が出版社退職の後、ようやくアーティストとしての発表活動にアクセルを踏み始めた頃だ。[Inner Land]という大規模な展覧会のために、オーストラリアから来日した彼女を手伝った。もの静かで、元ダンサーだったという彼女に、私はピナ・バウシュが重なって見えた。その後、何度かエアメールのやりとりをして、静謐な美しい作品集を受け取ったこともあった。

もうひとり、Alastair MacLennan。
http://www.vads.ac.uk/collections/maclennan/index.html
この人のパフォーマンスを初めて見たのは、1998年ポーランド北部の街ビトゥフの中世の城で開催されたフェスティバル[Castle of Imagination]に参加したときだ。私は城の塔の内部にインスタレーションを設置した。
http://members.jcom.home.ne.jp/maryoshi/eachwork_ins/1998castle.html
その後、彼がNIPAFというパフォーマンスフェスティバルのために来日し、そのときのパフォーマンスで、私は初めて、表現によって鳥肌が立つ経験をした。彼の出身地である北アイルランドに吹く風を感じ、政治的な緊張の空気を感じた。


どちらのアーティストも、かつて出会った頃の表現から大きく傾向を変えることなく、かと言って色あせることもなく、着実に、魅力的な活動を続けているように見受けられ、それがなにより嬉しかった。
私も、こんなふうに誰かが思い出したとき、「相変わらずいい仕事をしている…」と思われるアーティストでありたいと思う。

吹雪の新潟をゆく

下書きのまま時が経ってしまったが、2週間前、調査のため新潟市を訪ねた。
天気予報は、その日を狙ったかのように「雪で、平地でも積もるでしょう。」と言っている。昼頃に到着した現地は、ウェットな大粒の雪が降っていた。仕方がない、観光などはできそうにないから、ピンポイント的に見たいところだけ廻ろう。循環バスの1日チケットを購入して、まずはエネルギー補給のために本町市場で下車。なにか新潟らしいものが食べられるかな!と期待したが、食材は売っているものの、食事ができる店はほんの少ししか見当たらず、そそられないのでパス。循環バスは1時間に1本で、まだしばらくは来ない。次の目的地、歴史博物館まで歩くことにする。約1.5キロぐらいあるけれど、ぶらぶらと古町の風情を見ながら、道中で昼食としようか。

しかし、雪国は甘くなかった。強風と共に吹き付ける雪。傘で防がなければ、たちまち雪だるまになりそうだ。傘を盾のように前に構えなくてはならないので、歩きながら見えるのは足元だけ。立ち止まり、食べ物屋の看板はないかと見渡すが、凍える街は遠くまで人通りもなく、お店も扉を閉ざしている。ガイドブックの華やいだページとは印象が違うのは、今日の天気のせいなのだろうか?
ラーメン店ののぼりが見えた!もう新潟で“どさんこ”でもいい、迷わず入り、生気を取り戻す。

とにかく目的地に着いて屋内に逃げ込みたいので、古町の風情を探している場合ではない。シンプルに行ける信濃川沿いの幹線道路に出て、水気の多い雪道をゆく。突風が吹き付けて、ああっ!とうとう新品の傘の骨が、2本曲がってしまった……がっくり。
傘の骨を押さえつつ、ただ苦行のように歩くのみ。いったい私はなぜ、よりによって吹雪の新潟を歩いているんだろう…?

新潟市歴史博物館は展示物は多くなかったが、湿地を肥沃な農地へと開拓してきた先人の努力がよくわかり、興味深かった。雪のせいか入館者がとても少なく、映像のプログラムの鑑賞者は私ひとりだった。続けて2本見ながら、雪で湿った衣服を乾かし、疲労を癒す。

循環バスが廻ってくる時間を見計らって、信濃川対岸に渡る。朱鷺メッセの地上125メートルからの展望は、ここへ来てよかったと納得できる光景だった。建物上面が雪をかぶってその形をクリアに見せている。
遠い海の上空にまだらのグラデーションがみえるのは、そこでの降雪の状態のせいだろうか?


翌日、現地ではめずらしく終日快晴となった。バスでやや広範囲に市内を廻り、この土地の環境が大まかに把握できた。地元の人に昨日の吹雪の体験を話したら、「本当の新潟を体験できてよかったですね!」と笑われた。「あれがここの冬の7割…いや、脅かしちゃいけないから、5割ってことにしておきましょう。」
海上の空気のまだらは、海から上昇する水蒸気であることがわかった。日本海からの湿気をたっぷり含んだ大気が上陸して山々を越える際に豪雪を降らせ、乾いた大気となって太平洋側へ流れる。晴天続きの東京の冬は、日本海側の豪雪のおかげとも言える。

下写真:遠く海面上に水蒸気が立ちのぼる。

大気が廻って気象をつくり、川と海がせめぎ合って砂丘をつくり、人は砂丘を貫き、潟から排水して農地をつくる。2日間の新潟市滞在で、地上をとぼとぼ歩いたり、高層ビルからの俯瞰でこの土地を感じ、地球表面を循環している大気や、この水の土壌での人々の永きに渡る試行錯誤の成果を実見できた。大きな2つの河口がある極めて湿潤な地が、今や豊かな農地と都市に変わっていることに感慨深かった。